伏見の歴史を研究するグループ「伏見城研究会」が御香宮神社(京都市伏見区御香宮門前町)で6月23日、「中世後期の伏見の景観と地理~伏見宮貞成(さだふさ)がいた景色~」をテーマにした研究成果の発表を行った。発表者は京都文化博物館・学芸員の西山剛さん。
室町時代の伏見の様子については、それを示す明確な絵図や史料が残っておらず、これまで未知の分野が多いとされてきた。
西山さんは、伏見宮貞成が書き記した「看聞日記」に注目。貞成の目を通して見えてくる当時の伏見の様子や、記述から伏見宮家の邸宅で1401年に焼失した「伏見御所(御所旧跡)」、貞成が住んだ「伏見仮御所」の場所を特定する研究をしている。
貞成は伏見宮家3代目当主で後花園天皇の父親。「看聞日記」は貞成が1416年から1448年まで33年間にわたって書き記した日記で、西山さんは「当時の伏見の様子を知る貴重な文献」と説明する。
西山さんは、日記に登場する「仮御所の東側にあった谷川」という記述に注目。「谷川は巨椋池(おぐらいけ)に注ぎ込んでいたと見られ、宴席や遊興の場ともなっていた。登場する地名などから、東側に谷がある高台、すなわち現在の大光明寺陵の辺りが仮御所で、江戸町近辺の切り通しが谷川の跡地だと推察する」と話す。
「指月(庵)は、現在の感覚だと山から月を見下ろすと思いがちだが、日記には『指月前において魚を釣る空間がある』『洪水があった時、指月においてこれを見る』などの記述がある。これはすなわち巨椋池との接点を示し、当時は間近に見える水に浮かぶ月を『指月』と呼んだのではないか」と西山さん。
「焼失した伏見御所(御所旧跡)については『田植えが行われる空間』『洪水すると沈んでしまう空間で津(港)に近い』『指月と同時に見て回れる範囲に存在』『ヒキガエルが数千匹現れる空間』などの記述から、指月(庵)よりも更に水辺に近い場所にあったと思われる」とも。
西山さんは「これらの痕跡は、秀吉の伏見築城や近世以降の開発によってほとんど残っていない。だが文献を読み解き実際に現場に足を運ぶことで、地形などから、場所や建物を推察していくことが可能。貞成は不遇な時代を伏見で過ごしたが、土地の人間と交流して豊かな感性を育んだ。彼の目を通して見えてくる当時の伏見の景色を、楽しんでいただければ」と話す。