江戸時代中後期の医者で文人としても活躍した橘南谿(たちばななんけい)を研究するグループ「黄華堂(こうかどう)再発見プロジェクト」が、活動3年目を迎えた。同グループは武庫川女子大学講師の株本訓久(くにひさ)さんが中心となって天文好きな仲間が集まり、文献などに残る「黄華堂」に注目して活動している。
「黄華堂とは橘南谿の伏見別荘だった場所で、現在の観月橋近くにあったとされる。黄華堂にはさまざまな分野の文人が集い、交流を深めていた」と株元さん。
その橘南谿は1753(宝暦3)年、伊勢久居(現在の津市久居)に生まれた。19歳の時、医者を志して上京。大坂や伏見に移り住み、医者や作家などとして活躍した人物。伏見奉行所(京都市伏見区西奉行町)の顧問医師を務め黄華堂では文化サロンを開くなど、伏見とは縁深い人物として知られる。
星のソムリエ京都事務局長で同グループ所属の和田浩一さんは「彼は1783(天明3)年には小石元俊の手ほどきで伏見の平戸刑場で人体解剖の執刀を行い、その所見を絵師吉村蘭洲に描写させ『平次郎解剖図』として残している。今でいう実況中継のような感覚だったと思われる。1793(寛政5)年には黄華堂で、泉州貝塚の眼鏡職人・岩橋善兵衛が作った望遠鏡を使った天体観望会を開催している。これは文献に残る記録では、日本最初の望遠鏡を使った天体観望会」と説明する。
「さらには宮内省の事務方の役人となり官位も授かって光格天皇の祭礼に列席している。後には『西遊記(せいゆうき)』『東遊記』などの紀行文を刊行するなど、これほど多方面で活躍する人間が伏見にいたのは驚きを禁じえない。観望会も単に星や月を観るのではなく、月のクレーターや太陽の黒点に興味を持ち、観察をしていた記録も残っている。まさに日本のガリレオ・ガリレイだった」とも。
「ここまで魅力的な人物なのに伏見で知る人はほとんどいない。だったら自分たちで研究して、もっと伏見や日本中の人に知ってもらおうと始めたのが、グループを立ち上げたきっかけ」と、NPO法人「子供達と最先端科学技術の架け橋」の理事でメンバーの戸泉加奈子さん。
同グループはこれまで、1年目は久居の「ふるさと文学館」を訪れるなど学術的研究や資料収集を中心に活動。その成果を冊子にまとめた。橘南谿の足跡をたどるフィールドワークと天体観望会をセットにしたイベントや、親子望遠鏡教室を開催するなど、橘南谿や黄華堂の魅力を伝える活動を行っている。
和田さんは「調べていくと、橘南谿が行った観望会の時に『空に近いから屋根に上って星を見よう』と言う参加者に対して『近所迷惑で注意されたら困るから上がるのは困る』というやりとりがあった。当時の彼と周囲の人たちの関係性がユーモラスに伝わってきて、親近感を感じる。このようなエピソードも彼の魅力の一つ」と話す。
今後については「望遠鏡を使った観望会は日本で初めて。今後、伏見を『日本初の天体観測をした町』としてPRすることは、国立天文台の縣秀彦先生からは口頭ではお墨付きを頂いている。さらに研究を進めて京都市や伏見区などにも提言できるようにしていきたい」と意気込む。