京都市伏見区の向島(むかいじま)地域で5月13日、巨椋池や太閤堤、向島城など、同地域の歴史を学ぶフィールドワークが行われた。主催は京都中小企業家同友会伏見支部。
「伏見の地域循環型経済と、地域の暮らしの向上」を目標に、地域の「歴史・文化・自然・環境を学ぶフィールドワーク」を年2回、開いている同支部。今回は向島地域の「宇治川」「槙島(まきしま)堤・小倉堤などの太閤堤」「向島城」「向島ニュータウン」を歩きながら、歴史や文化を学んだ。 この日は、同友会会員や京都市の関係者、京都文教大学の学生、向島にある京都すばる高校の生徒など31人が参加した。
一行はスタート地点の京阪電車・観月橋駅から出発。観月橋を渡って向島地域に入った。ガイド役を務めた京都文教大学の小林大祐教授は「観月橋はかつて豊後橋という名前だった。豊臣秀吉が巨椋池に槙島堤や小倉堤を築いた時に橋も架けられた。当時は屋根付きの橋で、その遺構の一部は琵琶湖の竹生島に残っている。江戸時代には三条大橋、淀大橋・小橋と並んで幕府直轄の公儀橋だった。それだけ、この橋が重要だった証拠」と説明する。
続いて宇治川では、対岸の宇治川派流の入り口跡を見学。同友会メンバーの田中敏博さんは「以前は宇治川から宇治川派流に水が引き込まれていたが、現在は宇治川派流からの水の出口になっている。これは宇治川上流に天ヶ瀬ダムができたことで土砂が下流に流れなくなり、宇治川の川底の高さが5メートルほど低くなったため」と解説する。
その後、一行は徳川家康の居城だった向島城の痕跡を探しながら散策した。小林さんは「堀があった場所は現在でも低く、本丸や二の丸跡は高くなっている。微妙な高低差と地図を参照することで、頭の中でイメージして歩くのも楽しい」と話す。
最盛期の2万人から1万2000人へと、人口減少が著しい向島ニュータウンの歴史を学んだ後、太閤堤の痕跡を今でも体感できる場所を見学して、この日のフィールドワークは終了した。
田中さんは「地域の歴史を知ることは、地域を活性化していくためにも重要。今後も、継続的にこの活動を続けていきたい」という。