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月桂冠が発表 キリシタン大名・高山右近の伏見屋敷は教会のカムフラージュ

江戸時代の地図に記載されている高山右近の屋敷

江戸時代の地図に記載されている高山右近の屋敷

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 京都市伏見区の「月桂冠(げっけいかん)」がホームページで、キリシタン大名・高山右近(うこん)の伏見屋敷についての調査結果と見解を発表した。

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 調査することになったきっかけについて、月桂冠総務部広報課・課長の田中伸治さんは「月桂冠大倉記念館から道を挟んだ場所に以前、同社の女子寮があった。そこを取り壊した際、奥へと続く小道の存在が明らかになった。その小道と同社に残る古地図を照合したところ、地図にも通路があり、その先に高山右近の名前が載っていた。これまで伏見との関わりはあまり知られていなかったので、興味深いと思って調べ始めた」と話す。

 高山右近の屋敷は現在の丹後町に位置し、京都市立伏見南浜小学校、京都市立伏見南浜幼稚園と、宮内庁が管理する伏見松林院陵の西半分にかかる形で存在していた。

 田中さんは「時代考証していくと、つじつまが合わないことも出てきた。高山右近は1587(天正15)年の伴天連(バテレン)追放令で大名を廃業しているが、豊臣秀吉が伏見を城下町として開発したのは1592(文録元)年。そこに高山右近の大名屋敷があるのは矛盾している」という。

 田中さんは京都聖母女学院短期大学・名誉教授・三俣俊二さんの著書などを使い調査を進めた結果、「高山右近は前田家の客将として金沢で過ごしたが、伏見に訪れていた記録が残っている」「高山右近といとこのマルコ孫兵衞は頻繁に金沢・伏見間で書簡のやり取りをしていた(石川県立美術館に一部現存)」「伏見教会は、マルコ孫兵衛の名義で1604(慶長9)年に建てられ、1614(慶長19)年の禁教令により焼き払われ破壊されるまで存在していた」「1614年のイエズス会年報に、周囲が町家でぐるりと取り囲まれた引っ込んだ場所にあったことが記されている」ことなどが分かったという。

 「どうやら徳川将軍の許可がなかったために、キリスト教会活動への監視の目から逃れる目的で、一見、教会と分からないようカムフラージュしていたようだ。高山右近が度々訪れていたことから『高山右近屋敷』という表記になったのかもしれない」と解説する。

 田中さんは「伏見には隠れた歴史がまだまだあるのが今回も分かった。伏見の歴史を発掘・発信することは、伏見の魅力をお伝えすることにつながる。高山右近は2月7日、バチカンからカトリックの崇敬対象の『福者(ふくしゃ)』に認定され注目を集めている。今後も専門家の力をお借りしつつ、さらに調査を進めていきたい」と意気込む。

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