京都市伏見区の御香宮神社で2月24日、歴史研究グループ「伏見城研究会」が「伏見・植野家文書から寒天、そして町おこしまで」をテーマにした研究成果の発表を行った。発表者は、植野伝次郎商店の植野彰さん。
植野さんは荒布(あらめ)という海藻を取り扱う植野伝次郎商店の7代目。同商店でも明治のころまで、寒天を作っていたという。
植野さんは「寒天は江戸時代前期、伏見御駕籠町の美濃屋太郎右衛門の手代(てだい)が、心太(ところてん)を外に置き忘れて凍らせてしまい、それが乾燥した状態で発見するという、偶然の産物でできた。この発見により、総本家駿河屋で伏見名物の煉羊羹(ねりようかん)が誕生するなど、伏見の歴史や食文化の形成に密接に関わってきた」と説明。
「わが家では1860年代に作っていた記録が残っている。当時は葭島(よしじま)に寒天場があり、そこで作っていたようだ。寒天はてんぐさ(海藻)が原材料。太陽に当てて天日干しにすると、紫外線で色素が脱色されて3日ほどで透明になる。これを湯で煮た煮汁を凍らせてから解凍させると、水分が抜けてゲル成分が残る。このゲル成分が寒天」とも。
植野さんは「その後、寒天作りは長野県の諏訪地方や大阪の高槻など、各地に広がっていった。高槻などは『近代寒天発祥の地』というテーマで町おこしを行っている。伏見は残念なことに生産もしておらず、石碑もない。伏見全体としてもっと『発祥の地』ということをアピールしても思う。寒天と日本酒をコラボさせた商品開発や、寒天の体験教室なども面白い。今後、区や市民活動グループなどとも連携しながら『寒天町おこし』を盛り上げていけたら」と意気込む。