京都市伏見区の伏見区総合庁舎(京都市伏見区鷹匠町)で1月15日、鉄道セミナー「新京阪山科線・京阪六地蔵線~戦前の伏見を巡る鉄道計画はこうだった~」が行われた。講師は郷土(伏見)史研究家で伏見城研究会会員の若林正博さん。主催は「伏見歩き隊」。共催が伏見区。
伏見区では区民に向けて「伏見の魅力を再発見してもらうこと」などを目的とした「伏見連続講座」を開講している。毎回テーマを変えた講座を用意しており、一定回数を受講すると記念品などをもらえる。この日の講座には、前日からの大雪にもかかわらず、定員いっぱいの80人が参加して行われた。
若林さんはまず「江戸時代、淀(よど)・納所(のうそ)から京都方面に伸びる街道として『鳥羽街道』『伏見街道』があった。1910(明治43)年に開通した『京阪電鉄』は伏見街道に沿って作られた。同時期に鳥羽街道に沿って淀から壬生(みぶ)まで走る『洛西(らくさい)電気鉄道』も計画されたが、不況と地価の高騰などで工事が開始されず、最終的には1917(大正6)年に不認可となった。もう一つの竹田街道には京都市電が開通している」と、伏見の街道と鉄道の関わりを説明。
続いて「東海道本線は1880(明治13年)に京都~大津間が作られたが、現在の路線とは異なり京都駅~稲荷駅~山科駅~大谷駅~馬場(膳所)駅を結んだ。当時はトンネルを掘る技術が低かったので、南に迂回(うかい)する形で作られた。稲荷駅にある『日本最古のランプ小屋』は当時のもの。東海道本線の新線開通に伴い旧奈良線は廃止され、その後近鉄京都線の前身の奈良電気鉄道に払い下げられた」などと、大正時代の地図を使いながら説明した。
休憩を挟み後半には、「実は廃止された旧東海道本線の稲荷~山科は現在、名神高速が走っている」とした上で「名神は旧東海道本線の築堤跡を活用したが、戦前にもそれを活用しようとした鉄道計画が存在した。それが『新京阪山科線』。山科線は西向日駅から分岐、伏見を通って、同時期に京阪電鉄が計画した『京阪六地蔵線』と山科で合流する計画だった」と説明。
新京阪は「京都市内の地下への乗り入れ(日本初の架線・集電地下鉄)」「関西初の高架線(大阪市天神橋筋六丁目付近)」「国鉄特急・燕を追い越すスピード」などをミッションに掲げた、当時の常識を覆す超近代的な鉄道会社として計画された。新京阪山科線と合流した京阪六地蔵線は、大津市の膳所(ぜぜ)まで延伸する計画だった。さらにその東には、名古屋急行電鉄が膳所・名古屋(金山)間を結ぶ新路線を計画。京阪六地蔵線と乗り入れする予定だった。
これについて「当時の鉄道の開設には『軌道法』『地方鉄道法』の2種類の免許制度があった。『軌道法』は鉄道省と内務省の審査が必要で許可を意味する『特許』が、『地方鉄道法』は鉄道省のみの審査で『免許』が与えられた。京阪は新京阪のスピードを生かして大阪~名古屋間を2時間で結ぶ戦略を立てた。しかし鉄道省からは大阪~名古屋を1社で結ぶ許可が下りないため、あえて『新京阪山科線』『京阪六地蔵線』『名古屋急行電鉄』を別々で作って乗り入れする戦略を作った」と話す。
京阪六地蔵線については「かなり計画が進んでいたことはJR奈良線六地蔵駅近辺にある鉄橋が『京阪鉄道橋梁』という名前になっていることなどでも分かる。新奈良バイパスは六地蔵線の用地跡を活用している」と解説。「六地蔵や桃山南口を結ぶ鉄道計画は、同時期に他にも4つあった。そのうち『山科電気鉄道』は、当時の伏見町長だった中野種一郎が発起人。桃山南口や六地蔵があった堀内村から山科への路線を中野が計画したのは、伏見の市制計画をもくろむ中野が堀内村を取り込む『大伏見市構想』の影も見え隠れして面白い」とも。
最終的に昭和恐慌の影響により、まず膳所・名古屋間が頓挫。そこで計画自体の目的や戦略に大きな狂いが生じた京阪六地蔵線が起業廃止。それに連鎖する形で新京阪山科線も1937(昭和12)年起業廃止を出願し認められて、すべての計画が幻となった。
若林さんは「この鉄道計画が実現していたら、東西の交通の不便さも存在しなかった。伏見の町も大きく変わっていたと思う。鉄道を新設することは難しいが、バスの路線を増やすなどの新しい交通インフラを考えるきっかけになるとうれしい」と話す。