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京都伏見にかつてインクラインがあった 高低差15mなど研究成果発表

昭和初期の伏見インクラインの写真(個人蔵書籍より)

昭和初期の伏見インクラインの写真(個人蔵書籍より)

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 伏見の歴史を研究するグループ「伏見城研究会」が御香宮神社(京都市伏見区御香宮門前町)で12月16日、「琵琶湖疏水と伏見」をテーマにした研究成果の発表を行った。

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 「伏見城研究会」は1974(昭和49)年に、御香宮神社の三木善則(そうぎよしのり)宮司が中心となって設立した研究会。これまで「伏見城下(豊後橋町)・発掘調査」「淀城・発掘調査」「淀城天守台・発掘調査」など、京都における近世考古学の先駆けとして大きな成果を収めてきた。現在は考古学だけではなく、伏見城下や伏見周辺地域の古代から現代に至る歴史を研究対象として、伏見に所縁のある約20人の会員が研究活動をしている。

 この日は同研究会の会員で琵琶湖疏水アカデミー代表の小森千賀子さんが、発表を行った。小森さんは伏見生まれ。25年間小学校教員として教鞭をとってきた。京都市の小学校では、小学校4年の社会科の授業で年間15時間、琵琶湖疏水を学ぶ。小森さんも長年にわたり琵琶湖疏水を教えてきたという。

 小学校教員を退職したのをきっかけに「紙芝居などを使った教材作成」「若手教員が使いやすい資料作成」「京都市下水道局など公的機関との連携」を掲げて、京都大学人間・環境学研究科で琵琶湖疏水の研究を行っている。

 琵琶湖疏水は1890(明治23)年に開通した第1疏水、1912(明治45・大正元)年に開通した第2疏水を合わせた総称。大津市で取水し、京都市内を経て伏見区を通過した後、宇治川に注ぎ込む。

 小森さんは「琵琶湖疏水のうち伏見区を流れる部分(正確には鴨川合流点~伏見堀詰間)の正式名称は『鴨川運河』。同区の深草、藤森近辺を京阪電車と並行して流れ、墨染で西に進路を変え、伏見下溜から再び南下していく」と説明。
 「墨染で西に進路を変えた辺りは、かつてインクラインがあった場所。インクラインは東山の蹴上(けあげ)が観光名所として有名だが、蹴上の582m、高低差は38m、勾配15分の1に対して、伏見のインクラインは291m、高低差は15m、勾配10分の1と、蹴上以上の急勾配だった。残念ながら1959(昭和34)年に姿を消したが、もし現存していれば貴重な観光資源になったはず」とも。

 小森さんは文献や京都府総合資料館の資料などから、伏見区内でどのような目的で水が取水されて使用されてきたかも研究。
 「1967(昭和42)年の資料では、最も多く取水していたのは『富山漁網』という企業。ここは現在のイズミヤ伏見店(伏見区深草出羽屋敷町)がある場所。明治年間には伏見紡績という企業があった。同じ資料を見ると意外なほど農業用の取水が多い。当時はまだ田園風景が多く残っていたことが資料を読み解くことで分かる」と話す。

 小森さんは数多くの企業や人にもインタビューをしてきたという「若い人は伏見インクラインを知らないが、高齢の方はよく覚えている。琵琶湖疏水の記憶や記録を後世に伝えていきたい。まつわる逸話や情報があれば提供してほしい」と呼びかける。

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